思想,哲学

水面下の「愛」、サディスティックな「愛」

水面下*1まで降りてきて、おれと一緒に悩め、そしてその先のなにかに至るということ。それを、結局のところおれは求めているんじゃないだろうか。おれは、とことんまで、おれである。おれは〈他者〉に対するときすら、それがいわば〈信仰〉というかたちをと…

許されないことは、いかなる状況においても、許されないが、しかし……

E. Kant の、 いかなる場合でも嘘を吐いてはいけない という考えは、しばしば非難に晒されるが、これは、ある意味においては、適切なのではないだろうか。嘘の例はともかくとして、 いかなる場合でも許されない と捉えるべきことはあるのだ。とは云え、その…

東浩紀・宮台真司, 『父として考える』, 2010年

東浩紀, 宮台真司両氏の対談を収めた『父として考える』は、ぼくの卒論の主題である共同性という主題について、非常に示唆的な点が多かった。ある意味、 ぼくの書こうとしていることを、圧倒的に上手く下書きされてしまった という感すらある。とくに、共同…

変容における信仰,自己における無神論

本稿は、N.N. 教授の講義「自己変容の哲学」の期末レポートとして、8月7日付で提出したものに、一部改変を加えたものである。 多くの場合において、自己変容は、信仰とかかわる。無信仰から信仰へ。信仰から無信仰へ。これらも自己変容の1つのかたちと云える…

救いとしての自己変容――あるいは自己変容と他者

今セメスターの N.N. 教授の「自己変容論」講義の期末レポートの準備をしているなかで、先セメスターの同じシリーズの講義で発表したさいのレジュメが出てきたので、掲載する。なお、発表後の質疑応答をうけての改変などはしていない。また、本稿においてと…

殺人という非・倫理の倫理性

殺人は、非倫理的な行いである。それは、倫理という枠組みの中で非難される行いである、という意味で非倫理的なのではない。それは倫理の範囲を超えた行いである、という意味で非倫理的なのである。殺人という行いは、倫理の可能性を封じてしまう。他者を殺…

「私」と「考える」

「私は考える」と云う際に、すでに「私は存在する」ということが前提とされてしまっているのではないだろうか。だから、この段階で云いうるのは、ただ主語を欠いた「考える」ということのみではないだろうか。もちろん、語用論的に考えるならば、「考える」…

Spinozaと多世界論

以下の文章は、U.O. 教授の演習「スピノザ『エチカ』を読む VI」の期末レポートとして提出したものの転載である。 わたしが Baruch De Spinoza の思想に興味をもつのは、とくに多世界論*1との関係においてである。Spinoza の思想の影響を受けているとされる…

Deleuze によって語られる Nietzsche ―― Nietzsche との対話の契機として

以下の文章は、S.N. 教授の講義「ニーチェの歴史思想(2)」の期末レポートとして提出したものの転載である。なお、この文章が書かれてから一月の間に、考えを改めた部分があるが、それを反映させようとすると、おそらく収拾が付かなくなると考えられるので…

記憶と時間と自分と

以下の文章は、写真部の先輩、というか人生の先輩たる野郎氏のために、「記憶」という題目の下書かれた。 記憶。それを人は普通、なにか時間に関係したものとしてとらえるだろう。けれどもぼくにとって記憶は、もはや、時間の流れから外れてしまったもののよ…

私と〈他者〉との関係における私の自由の有無

以下の文章は、わたしの敬愛する友人 S.S. 氏との議論において、かの女から提起された問題に対する返答として、Emmanuel Lévinas の思想に対する、極めて狭く浅い理解に基づいて書かれた。なお、ここに掲載するにあたって、文体を改めた。 かの女がわたしに…

〈国家中心主義リアリズム〉か〈ネオ制度主義〉か

つねに暴力でしかない〈世界〉の中において、ある「平和」を求めるならば、関わることで暴力が生じざるをえない〈他者〉に対して、かれがその暴力を受け流し、あるいは糧とすることを願いながら関わる以外のすべはないに等しい*1。ここで“〈国家中心主義的リ…

完全な美はありえないか

完全な美などというものは、ありえないのではないだろうか。なぜなら、美を媒介する私たちの機能が不完全なものだから。美というものは、媒体の不完全さなどの要素の、その単純な集合として生じるものではない、ということを考え合わせるならば、これは完全…

「これは美しい」への同意を、他者に要求することはできない

他者との間に「美しい」という言葉についての、なんらかの共通理解がなければ、「これは美しい」と言うことは、意味を持ちえない。ここから一見、他者に対して「これは美しい」への同意を要求することは妥当であるように思われる。けれども、それは間違って…

神と賽子

「神は賽子を振らない」のではなく「神は賽子の全ての目を一度に出す」*1のではないだろうか。なお、ここでいう「神」は、Spinoza の神に近い「=世界」としての〈神〉である。 キーワード スピノザの神 神はサイコロを振らない 神は賽を投げない 不確定性原…

世界の一つの現れと認識者

一としての世界があり、時間や空間といったものは、その認識における一つの現れである、という解釈を私は考えている。だがここで、認識者は、世界にとって,あるいは世界において、いったい何であろうか。認識者は当然世界の内にあるのだ、と考えると、そこ…

可能性と必然

私における世界の現象の可能性に応じた無限に多様な私と無限に多様な世界があるならば、そして一つの私と一つの世界の対応が厳密に一対一であるならば、私の下である可能性が現象した、ということは、一つの必然である、と言えるのではないだろうか。

暴力と糧

他者との間になりたつ全ては暴力である。ただ私にできるのは、他者の暴力を糧とすることであり、私の愛する他者がせめて、私の暴力を糧とできるよう、願うことである。

世界との関係の限界に挑むものとしての哲学――『レヴィナス入門』

熊野純彦 著(1999年) ちくま文庫 レヴィナスの思想はぼくの詩に訴えかけてくる。ぼくの詩はぼくの哲学に対して、少なからぬ着想を与えてくれると共に、その厳密性を損なわせもする。そういう意味で、かれの思想はぼくにとって危険を孕んでいる。しかし哲学…

道具主義の「真理」と、世界そのものとしての「真理」

以下の内容は「哲学基礎 A」の講義において考えたものである。 道具主義(Pragmatism)*1において目指されているものは何だろうか。そこでは〈私たち〉にとって有用なものが、合意によって「真理」であるとされる。しかしそれを「真理」と呼んでしまうことに…

心身問題に関する試論

以下の内容は「世界の思想 ――認識するとはどういうことか――」の講義において考えたものである。 感覚器官により、私の身体に与えられた刺戟が、神経信号に変換される。これが言語野に伝えられ、言語的に認識される。この言語化の働きこそが〈私〉である、と…

認識に関する試論

センス・データ*1は認識されうるものとしてあり、それ自体が認識内容ではない。センス・データが主体により、主体にとって一定の意味を持った部分へと文節(言語化)されてはじめて、それは認識されたことになる。〈意味〉は理論的意味と詩的意味に分けられ…

6/17 「愛している振りの可能性 −プロフェッショナルへのアウトソーシング−」

愛の不可能性について (ロリコンファル / kagami 氏) 愛している振りの可能性 −プロフェッショナルへのアウトソーシング− (同上) 僕が今まで「愛」に関する言説に対して抱いていた違和感を、この文章は上手く説明してくれている様に感じる。

行動の選択

行動を選択する際の各々の選択肢の比較の方式は、「順位」ではなく「レーティング」を用いるべきだろう。

いくつかの思考の断片(8)

全ての人間は、自分以外の主体になれないという意味合いにおいて、等しく異常(Crazy)である。

いくつかの思考の断片(7)

私があらゆる哲学的思考においてまず解決すべき問題は、主体とは何であるかという問題である。

いくつかの思考の断片(6)

私は世界を捉えようという試みを断念し、私と世界の関係のみを捉えようとする。

データベース、シミュラークル、物理世界、主体。

東浩紀氏の『動物化するポストモダン』を読んで世界と主体の関係に関するモデルを思いついた。シミュラークル等の概念が間違っている可能性があり、充分に練れていない部分もあるが、とりあえず載せてみる。 物理的世界のデータは、センスデータという表層を…

いくつかの思考の断片(4)

メモ帳の整理を兼ねて、一月ほど前の思考を掲載。 コミュニケーションにおける苦悩と、その解決法を見出すことに対する歓びという二重性。 自己解析において、一つの隠匿を暴き出すと同時に生み出される新たな隠匿。

いくつかの思考の断片(5)

以下、オフ会中のメモより。下掲の詩『言語、乖離、虚構、現実』も同様。 直接的体験と間接的体験の間には、それが記憶となった時点で(或いは体験のその瞬間においてさえも)、本質的な差異はないといえる。直接的体験の方がもっともらしく感じられるのは、…