東横インの西田憲正社長の発言はなぜ懸命でないのか。東横インの西田憲正社長の発言はなぜ憎めないのか。

東横イン不正改造問題に対する西田憲正社長の、どんなちっちゃな条例違反でも、違反は違反だから、軽く考えてはいけない。時速60キロ制限の道を67〜68キロで走ってもまあいいかと思っていたのは事実。これからは60キロの道は60キロできっちりと走ると肝に銘じるという発言は、確かに言いたいことはそれなりに分かるが、一企業の社長である人間がそういう発言をすることは、あまり懸命ではないと感じた。なぜならば、「この程度ならば法を犯しても構わない」という慣習以上に、「日本は、少なくとも建前においては法治国家であるのだから、公の場においては法を尊重する態度を取るべきだ」という慣習の方が強力であるからだ*1 *2

集団はその集団における慣習を破る人間に対しては厳しい*3。故に、この西田社長の発言は企業イメージを損ねることになり、不利益なものとなる。そこに頭の回らなかった西田社長は、懸命でなかったといわざるを得ないだろう。

しかし同時に、「西田社長は憎めない」という意見も聞かれる。これはその更に上に「個人の発言の自由」という慣習と「個人は何よりも前にまず個人である」が存在するためであると考えられる。つまり、西田社長を「一企業の代表」という位置において考えた場合は「慣習を犯したもの」というレッテルが貼られるが、「西田憲正という一人の人間」として考えた場合は、そのようなレッテルは貼られないのである。そして「一企業の代表」という立場よりも「西田憲正という一人の人間」の方が上位に存在するので、民衆*4(の一部)は「一企業の社長があんな発言をするのはどうかと思うけれども、なんとなく憎めないんだよな。」といった意見を持つのである。

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*1:この「慣習」という言葉を「構造」と書き換えてもいいだろう。

*2:不正改造を行うことの是非や、責任感がどうのこうのといった問題は、他所で少なからず言及されるだろうから、ここではとりあえず無視する。

*3:この理由に関しても述べようかと思ったが、想像以上にややこしそうなのでここでは述べない。

*4:=上記の慣習を有する集団