哲学はダイアローグ的である。

昨日、地元の禅宗の寺の住職であり、市内の中学校(筆者の母校ではない)の美術教師でもあり、仏教的なベースに基づいた現代的な彫刻作品も発表されているS氏が、美術の講師をして欲しいとのことで、陶芸家である父を尋ねて来られた*1 *2。僕は彫刻や仏教に興味があることもあって、S氏が作品の写真を取り出したのを切っ掛けに話に加わったのだが、S氏はシュタイナーやユングなどに関しても色々と知っておられ、興味を持っている分野のうち共通した部分が多かったため、随分長い間話をさせていただいた。

僕が最近興味を持っている構造主義的な考え方と、仏教的な考え方との共通点など、新たな発見が多くあり、大変有意義な時間であった。

大阪大学文学部の鷲田清一教授が、哲学は本来独白モノローグ的なものではなく対話ダイアローグ的なものである、といったことを提唱しているが*3、今回そのことを強く実感した。

また上にも書いたように、S氏は禅宗の僧侶であるので、折角なので座禅の指導もしていただいた。座禅には以前から興味を持っており*4、真似事のようなことはしたことがあるのだが、なかなか機会がなくて*5本格的にやるということはなかった。僕は体が硬めなので座禅を組むのは少ししんどいかもしれないと思っていたのだが、想像以上に気持ちがよく、これも大変素晴らしい体験だった(因みに僕は普段から腹式呼吸なので*6、座禅が楽にできた理由の一つにはそれがあるのかもしれない。)これからできれば毎日数分間座禅を組んでみようと思う。

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*1:この講師の話は今回は断らせていただくこととなった。

*2:S氏とは今回が初対面である。

*3:カフェ・フィロ」参照。同会では、市民との対話を実践する「哲学カフェ」などの活動を行っている。

*4:このフレーズをしょっちゅう使っているような気がするが、それだけ興味を持っている範囲が広いのだから仕方がない。

*5:尤もこの様な理由で、実際に調べたり行動したりできるのはそのほんの一部だが。

*6:自然に腹式呼吸を覚えたと言ったら「珍しい人だ」と言われた。僕は特別なことではないと思っていので意外だった。