一つの仮定における身体のディレンマ

もしも永遠に自分自身の身体と一切の身体的感覚を失う代わりに、身体という桎梏から解き放たれ、純粋な精神として世界に直截的に関係することが出来るように様になるならば、私はそれを選ぶだろうか。

世界に対し自由に直截的に関係することは、私が憧れて已まないところである。だが同時に、私はこの身体というものに、この身体という形態に、あまりにも惹きつけられてもいる。実際には身体とは酷く曖昧な境界にしか過ぎず、身体感覚もまた酷く不確かなものにしか過ぎない。だが――いや、寧ろそれ故と言うべきだろうか――私はそれらをあまりにも強く「欲望」していると感じられるのだ。

しかしそうであっても、私は世界に対する直接的な関係の方を最終的には選んでしまうだろう。それは私にとってあまりにも魅力的に過ぎる。しかしその選択において私は、身体を失うことによって、その選択の意味を失ってしまうのではないだろうか。なぜだろうか、そのような考えが浮かぶ。

それは例えば、私がそれを選択する理由が、究極の知的快感を得たいという願望にって、しかし快感というものは実は身体的なものと不可分であって、身体を失っては成立し得ないものであるからなのかもしれない。或いは、私の求める究極のものは、身体感覚によってのみ得られるものであって、私が世界に対する直截的な智を得たいと願う理由は、あくまでもそこに至る為の情報を得たい、というものに過ぎからないのかもしれない。

私にとって身体の喪失は、あまりにも大きすぎる喪失となると思われる。それは杞憂に過ぎず、私の精神は身体などなくとも自由に存在しうるなのものである可能性も否定しきれないが。