グレッグ・イーガン『行動原理』

大学の SF 研究会の読書会で読んだので。以下、ネタばれあり。

人の命はなんら特別ではないという信念を抱かせるインプラントを使った結果として、主人公がエイミーに感じていたなにもかも――“愛”や“悲嘆”――の馬鹿らしさを理解した、ということについては、大いに疑問を感じる。なぜなら、対象に対する愛着というものは、「命」というタームでに属するものではないと思うから。(愛着はコーヒーカップに対しても抱きうる。)愛着というものは、「命」有無というタームではなく、対象に対する記憶内の記憶としての対象との関係性によって生じるものである、と私には思われる。勿論「命」があるかないか、ということは、少なからず愛着に影響を与えるとは思うけれど。

全く言語的な領域に属する言語能力と、全く言語以前のものである感覚とを、同じ装置で操作できる、ということにも疑問を覚える。もっとも、言語能力に対する効用が不充分であったから、その用途では期待はずれの売れゆきに終わった、という解釈をすれば*1、この点は解決するだろう。

*1:SF 研究会部長の解釈。