道具主義の「真理」と、世界そのものとしての「真理」

以下の内容は「哲学基礎 A」の講義において考えたものである。

道具主義Pragmatism*1において目指されているものは何だろうか。そこでは〈私たち〉にとって有用なものが、合意によって「真理」であるとされる。しかしそれを「真理」と呼んでしまうことに、私は疑問を感じる。なぜなら、何が「〈私たち〉にとって有用」であるか、と考えられる際、やはりそこには何らかの世界そのものとしての「真理」が想定されている、と思われるからだ。あるいはそれは道具主義の理論においては排除されているのかもしれない。けれども、やはり世界そのものとしての「真理」である蓋然性が高いものが何であるか、ということを前提として据えない限り、何が「〈私たち〉にとって有用」であるか、ということは言えないように思われるのである。

*1:実用主義,実際主義とも訳される。