多様=性

この文章について。

この文章は、2007年8月に、O.M. 教授の「現代の差別を考える ――マイノリティを考える――」の講義の期末レポートとして提出したものに、一部加筆修正を加えたものである。

私という「性的人間」について

私は大江健三郎氏に倣って、自らを「性的人間」として規定している*1。私が表現を行うとき、また表現を受容するとき、性的なものが非常に重要な位置を占めている、と感じるから、というのがその第一の理由である。私にとって、自らの性をどのように位置づけるか、ということは、最も重要な課題の一つである。

まず、自らの性に対する立ち位置をある程度はっきりさせておくために、現時点での私の、自身の〈性〉に対する認識を書き出してみることにする。私は身体的には男性であり、性自認も男性である。性指向は原則的には異性愛である*2 *3。行動,嗜好の多くの部分は男制的*4だが、女制的とされる行動,嗜好も少なくない、と認識している。

私は全体として、性別を超越することに憧れを持っている。実際、両性具有的なモティーフに惹かれることが多い*5性的嗜好は、他人と比べると大分広範である、と思われる。こういった傾向は、私がインテリ的,サブカル的な傾向性を持つ人間であることと、少なからず関係していると思われる。

知としての性

<性>のミステリ- (講談社現代新書)

伏見憲明氏は『〈性〉のミステリー』において、異性愛/同性愛が二項対立として存在しているのは、インテリの頭の中だけであ*6ると述べている。二項対立、というのは私の認識とは若干ニュアンスが異なるけれども、少なくとも異性愛を絶対のものとしてみていない、という点において、私はここでいわれる「インテリ」に属する人間だろう。けれども、ここで疑問に思うのは、果たして私を含む「インテリ」はこの性的指向の問題を、実感としてとらえているのだろうか、ということである。

私自身についていえば、同性愛者である、ということを明らかにしている人は周りにはいない(それらしきことを仄めかした人はいるけれども)。そして、あからさまに同性愛について嫌悪感を示している人、というのも実際に見たことはほとんどない。同性愛を扱った表現には少なからずふれていて、同性愛者によるウェブサイト*7なども読んでいるが、それだけでは充分に実感を持つには至っていないように感じられる。

勿論予め、既存の概念が絶対ではなく、そこから外れるマイノリティが存在するのだ、ということを認識しておくことは、非常に重要である。けれども実感を伴わない形で、謂わば知的ゲームとして語ることは、なんらかの危険性をはらんでもいるのではないだろうか。それは結局のところ、構造をずらし新たなステロタイプを生み出すのではないだろうか。

こういったインテリ的な態度は、私自身の〈性〉に対する認識においても、負の方向に働いている部分があるかもしれない。私が自身の〈性〉について思考するとき、それがインテリ,サブカル的な視点を纏ったものである、ということを、一つの逃げ道として用意している、という部分が少なからずあると思われるのだ。このことは、私が自身の〈性〉について率直に思考することを妨げている、と言えるだろう。

なお、インテリ的な傾向性が、ある人の性を構成していくことになる、ということ自体については、さほど問題ではないと思われる。なぜなら、そもそも性は様々な要素の影響を受けて構成されているものであるからだ。

性の領域,性の境界

冒頭に私は、自身を「性的人間」として規定している、と書いた。この表明の背後には、人間一般は必ずしも性的な存在ではない、という認識がある。伏見氏によれば、フーコーは、性的快楽を身体的快楽の可能性のワン・オブ・ゼムだととらえ直そうとしている*8。性の特権化に違和感を覚える私にとって、こういった考え方は非常にしっくりとくる。

また、ここでは身体的快楽としての性的快楽が語られているが、知的快楽としての性的快楽もまたありうるのではないだろうか、とも思う。それは、本来的な意味合いにおける性的快楽ではないかもしれない。けれども、身体的性快楽と知的性快楽が密接に関わっていることは、私の実感としては、疑いようのないことである。

どこまでが性的で、どこからが性的でないか、ということは非常に曖昧な問題なのだろう。例えば、ヌード写真は性的にとらえることも美的にとらえることもできる。そして多くの場合、それはその中間においてとらえられる。ある人にとっては、異性の手を取った写真は純粋に美的なものであるだろうし、それが美的であろうがなかろうが、それとは関係のないところで性的興奮を覚える人もいるだろう。そしてそこでは、性と美とは互いに影響を(順逆いずれにおいても)与えあっている、といえるだろう。

ここで、エロティシズムという言葉が想起される。この言葉は単に性的な意味合いで用いられることも少なくないが、ほとんど性と切り離された形で使われることも少なくない。性と非常に近い位置にあるものだが、性そのものではない。

性はこういった、他の要素と複雑に絡み合った形で在るのだろう。

性と関係

私は上で、異性愛両性愛,同性愛という言葉を使っているが、この言葉には若干の違和感を覚える。なぜなら、「愛」という言葉はあまりにも広すぎて曖昧すぎるからだ。この用法は、愛において性を特権化しすぎているように感じられる。異性愛者でも同性を「愛」することはできるし、同性愛者でも異性を「愛」することはできる。性は愛の一つの態であり、愛は性の一つの態である、というのが適当な認識ではないだろうか。

けれども、愛を欲求と置き換えたならば、一方的なニュアンスになってしまうだろう。ここで表そうとされている関係性の多くは、双方向的なものであるから、これもあまり適当とは言い難い。異性愛者には、異性に対して欲求を持つ人という意味もあるが、異性の性的欲求を受け入れることができる人という意味も含まれているはずである。

性の問題を考える上で、ある個人の問題として考えるだけでなく、関係性の問題として考えることは、非常に重要なことである、と思われる。

多様=性

性について考えることは、物事を一つの枠組みにはめ込んでしまわず、複数の視点から見ることの重要さを、ますます強く認識させてくれる。

私たちは自分の〈性〉の外に出て〈性〉を語ることはできない。私の外には更に広大な〈性〉の領域が広がっているにもかかわらず。そして私の〈性〉も、語りえないほどに複雑な様相を呈しているのだ。

性は普遍の中にではなく、個々の人格の,個々の関係の中にある、というべきかもしれない。

*1:私の用法は、大江氏の用法とは異なるかもしれないが。

*2:ここであえて「異性愛」という語を使っているのは、もし私が女性であったなら、という仮定の下で考えてみると、おそらく男性に対して性指向を持つのではなかろうか、と想定されるからである。

*3:以前の稿では、「異性愛者よりの両性愛者」と自身を記述していたが、自分が結局のところ異性愛的な枠組みから逃れ切れていない、ということを認識するに至ったため、このような記述に改めた。

*4:『〈性〉のミステリー』18頁参照。「女制」についても同様。

*5:これは例えば、私が掘骨砕三氏やしのざき嶺氏の漫画を高く評価していることに影響しているだろう。

*6:73頁

*7:例えば『みやきち日記』(id:miyakichi)。

*8:『〈性〉のミステリー』152頁