なぜ話し言葉においては書き言葉においてより外来語を多用してしまうか

ぼくは書き言葉〔écriture〕においては外来語を極力使わないようにしている。けれども、話し言葉parole〕においては、ときに顰蹙を買うほどまでに、外来語を多用してしまう。これはなぜだろうか。

まず思いつく理由は、日本語には同音異義語が多く、特に訳語(中でも哲学用語)には漢字で書き表さなければ、その意味するところが分かりにくいものが多い、ということだ。これは多くの人が同様に考えているはずだ。

そしてこの他に、もう一つ重要な理由があるのではないだろうか。それは、外来語を日本語に置き換える、という作業が、速さを削ぐ行為である、ということである。

たとえば、この文章を書き出すにあたって、ぼくはまず、écritureparole という France 語の単語を思いついた。そして、前述の通りぼくは書き言葉においては極力外来語を使わないようにしているので、これらの単語に対応する適当な日本語はなにだろうか、と考えた。ここですぐに思いついたならば、問題はないだろう。しかし、対応しそうな単語が思い浮かばなかったり、一応思い浮かんでも、その表現ではどうもしっくりとこない(この例ではまず、「文章」と「発話」という語が思い浮かんだ)、と思われる場合には、辞書を引くなどの手間をかけて適当な訳語を探すことになる。

こういった手続きに時間を割くことは、会話の場においては到底できない。そこで、とりあえず本来の意図をできるだけ削がずに伝えようとした結果、まず思い浮かんだ外来語をそのまま口にしてしまうことになるのである。もっとも、それが相手にとってなじみのない言葉であるならば、こちらの意図など伝わるべくもなくなってしまうのだが……(そして、そこでは話者の意図など本質的に無意味である)。