〈国家中心主義リアリズム〉か〈ネオ制度主義〉か

つねに暴力でしかない〈世界〉の中において、ある「平和」を求めるならば、関わることで暴力が生じざるをえない〈他者〉に対して、かれがその暴力を受け流し、あるいは糧とすることを願いながら関わる以外のすべはないに等しい*1

ここで“〈国家中心主義的リアリズム〉”において中心たる個別国家は、それが上記の希求を事実上一つの目的としている、という希有な場合を除いて、そのように〈他者〉に対する主体として相応しい、とは思えない。

対して、“〈ネオ制度主義〉”は「平和」への制度を運用する意志をもつ諸個人についての、希望的な前提を含んではいるものの、前者よりは現実性を帯びている、と言えそうである。

もっとも、前述の前提における問題点がある以上、諸条件を見たし、かつその問題点を解決しうる“第三の道”の模索は必要とされるだろう。



上記の文章は、H.T. 氏の「カントと認識論の諸問題」の講義において提出した、「〈国家中心主義リアリズム〉か〈ネオ制度主義〉か?あるいはどちらでもない第三の道か?」という問いに対する小レポートに、一部変更を加えたものである。

なお、〈国家中心主義リアリズム〉並びに〈ネオ制度主義〉という用語は、Matthias Lutz-Bachmann 氏による。

関連文献

*1:独我論,虚構論を除くと。