私と〈他者〉との関係における私の自由の有無

以下の文章は、わたしの敬愛する友人 S.S. 氏との議論において、かの女から提起された問題に対する返答として、Emmanuel Lévinas の思想に対する、極めて狭く浅い理解に基づいて書かれた。なお、ここに掲載するにあたって、文体を改めた。



かの女がわたしに対して提起した自由の問題に関しては、わたしはやはり、わたしの問題系においては自由はさほど本質的なものではない、と考えている。なぜなら、この問題系において重要なのは、私と〈他者〉の関係であり、自由が生じる余地があるのは、そこではなく、もっぱら私の全体性においてだと思われるからである。

〈他者〉が私に対して現れ、私がなんらかの応対をせざるをえなくなる。その応対は、私が〈他者〉を私の全体性のうちに取り込んで〈他者〉が私にとって理解可能な「他者」となる以前に、既に決してしまっているものではないだろうか。それは私に対して現れようとする〈他者〉と私の〈全体性〉との間の、いわば化学反応として、起こってしまっているのではないか、ということだ。

もちろん、私の全体性の内部に自由があるとするならば、その自由が〈他者〉への応対と全くの無関係である、とは言いきらない。けれどもそれは、その応対そのものに対して私が自由をもつ、ということは意味しない。ただわたしが意味するのは、〈他者〉に応対する私の〈全体性〉が、私がその全体性の内で自由を行使した結果のものとして構成されている可能性がある、ということである。

さてこの、私の全体性の内での私の自由だが、これはあくまでも私にとっての自由でしかない、とわたしは考えている。そもそも、Spinoza 的に言えば、私の全体性というものは、あくまでも神=自然の一つの様態としての有限知性におけるものにしか過ぎず、そのような有限知性にとっての自由は、本質性を欠いたものにとどまるように思われる。ただ、わたしはこの「有限知性」としての私の「理解」を肯定的にとらえているため、少なくともこのような形で、"私には自由がある"ということができれば、それで充分だと思っている。

以上の考えを、かの女のわたしに対する質問への答えとしてまとめると、以下のようになる。

この応対せざるをえない〈倫理〉は、私がそこになんらかの決定を下す前に既に決してしまっている以上、「イデオロギー」とは言えないと思われる。また、私の自由は私にとっては「ある」と思われていますが、それは私以外には意味をなしえないものだと思われる。

なぜ、私が〈他者〉へと応対するところに〈倫理〉が生じるのか、という問題は、この問題系の根幹をなす問題ですが、それがゆえに非常に難しい問題なので、ここではおくこととする。また、意志と肯定の問題も論じられるべきだろう。というよりも、それらを論じなければ、一割も論じたことになっていないように感じられるので、それら点に関しては改めて論じることとしたい。