記憶と時間と自分と

以下の文章は、写真部の先輩、というか人生の先輩たる野郎氏のために、「記憶」という題目の下書かれた。



記憶。それを人は普通、なにか時間に関係したものとしてとらえるだろう。けれどもぼくにとって記憶は、もはや、時間の流れから外れてしまったもののように感じられる。例えば、ある出来事ともうひとつの出来事、そのどちらが先でどちらが後か、ということは、けっこうあやふやになったりもするけれど、まあだいたい云うことができる。けれどもそれは整合的に、こっちが先じゃないとおかしいよなあ、といったふうな感じで云っているのだったりする。単純にその二つをつきあわせてわからないときは、そこから関連する出来事を想起してみて、つきあわせてみる、ということをすることもあるけれど。

とりあえずぼくが云いたいのは、記憶というのは数直線みたいな時間軸に、整然と並べられているものではない、ということである。少なくともぼくにとっては。 飛浩隆の『ラギッド・ガール』に出てきた、自分の経験したことを全て覚えている女性の場合なんかは、また違ってくるのかもしれないけれど。

もちろん、記憶を想起するときに、それは一応時間の流れをもって想起される。けれどもそれはあくまでも、それを想起するという行為が、時間の中で行われているから、ということにすぎないようにも思われる。どういうことかというと、DVD だか HDD だかに入っている動画データは、そのものとしては時間を含んでいないけれど、再生されるときには、今の時間の幅をもって再生される、みたいな。しかも、動画データは一応順番をもっているのだけれど、記憶はもっと絡まりあった塊としてあるんじゃないか、と思う。

それからもう一つ、記憶と云うときには普通、自分自身の記憶だという前提がある。けれどもこれも、実際はけっこうあやふやなものだったりする。少なくともぼくにとっては。例えばぼくは昨日研究室に先輩と二人で居て、その記憶は一応はっきりあるのだけれど、本当にそれをおまえは経験したんだな、と問い詰められると、決定的な確信はもてなかったりするのだ。もっともぼくにとっては、今ここで自分の目の前にあるものが、本当にあるのかどうかが、あやふやになることさえけっこう頻繁にあるのだけれど。

というか、そんなことを思っているときは、たいてい目の前にあるものを反芻しているわけで、それは目の前にあるそのものじゃなくて、すでに記憶に落とし込まれたものなのかもしれない。哲学の言葉を使って云うならば、それは直観ではもはやない、といったところだろうか。

閑話休題。まあ、結局のところ記憶なんてものは、単純な知識にしかすぎず、それが自分自身の記憶である、ということは、ただ単にそれが [私の記憶] なんていうタグをつけられている、それ以上のものではないのかもしれない。元になった現象の情報量が多い分だけ、強度をもったものになりやすい、ということはあるかもしれないけれど。

しかしそれならなんで、ぼくは自分の記憶を想起してのた打ち回ったりするんだろうなあ。その理由を考えるのが今後の課題。