「私は考える」と云う際に、すでに「私は存在する」ということが前提とされてしまっているのではないだろうか。だから、この段階で云いうるのは、ただ主語を欠いた「考える」ということのみではないだろうか。もちろん、語用論的に考えるならば、「考える」という言明自体が、私の存在なくしてなされえないだろう。けれども、私は考える、だから私はある
〔 Je pense, donc je suis
〕*1と云うときの R. Descartes は(あるいは、かれの思考をたどろうと試みるわたしは)、「語用論」などという術語を持ち出せる以前の段階に身を置いている。それは全てを疑い尽くした果ての段階なのだから。
だが一方で、R. Descartes がそこで示したかった事態は、ただの「考える」ではなかっただろう、とも思われる。しかしその事態はおそらく、語りえぬ領域にあるものではないだろうか。永井均氏の云う〈ぼく〉
*2,L. Wittgenstein の云う世界の限界としての私*3の示そうとしたもの。それをかれは示したかったのではないだろうか。
いやむしろ、そのそれがそれであるところのなにかは、もはや「考える」という語ですら示せないように思われる。それは、いっさいの「考える」との関連以前にそれであるようなそれであるのではないだろうか。
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