殺人という非・倫理の倫理性

殺人は、非倫理的な行いである。それは、倫理という枠組みの中で非難される行いである、という意味で非倫理的なのではない。それは倫理の範囲を超えた行いである、という意味で非倫理的なのである。

殺人という行いは、倫理の可能性を封じてしまう。他者を殺す、ということはそういうことである。倫理とは、他者と出会うことによって、私がせざるをえなくなることである。殺人とは、他者の〈顔〉が到来する、その向こう側にある顔を、亡きものとしようとする試みである。それはいわば、私が今後その他者に対して倫理的であることを放棄する、ということの表明であろう。それは、倫理が生じる可能性を、未然に封じてしまうための行いなのである。

だが、殺人が行われるためには、一度倫理が生じてしまっている必要がある、というのもまた事実である。他者への意志を持つ(持たざるをえない)こと、それが倫理なのだから。殺したいと思う他者に出会うことなくして、私が殺人を犯すことはできない。他者の〈顔〉が私の元へと到来し、倫理が生じることによって初めて、私は殺人の可能性に気付くのである。

この点において、殺人が倫理の枠組みの中で語られる余地はあるかもしれない。少なくとも、「殺意を抱く」ということは、倫理的なことであるはずだろう。そして、殺人がかろうじて倫理的に非難されるとしたら、それは、倫理的であることを私に要求した他者に対して、倫理的な返答を行わなかった、ということにおいてではないだろうか。もっとも、それを裁きうる視点などというものがあるのか、という問題はあるけれども……。

非倫理的であることがなぜ悪いことなのか。なぜ禁じられるべきことなのか。その問いに答える準備は、いまのわたしには、まだない。だから、いまのわたしには、殺人は悪いことだ、殺人をしてはいけない、と云うことはできない。わたしはただ無根拠にそう信じているだけなのだ。

E. Lévinas の著作を読むことを通して、この問いに対する答えを見出すことができればよいのだが……。