ふるさとは、そのものとしては、もはやない、などと、S. Freud を真似て云ってみようか*1。ふるさとへの憧憬、それは失われてしまったものへの憧憬である。それはけっして手に入らないものを求めている、というてんにおいて、愛に似ている。けれども、それはかつてたしかに私がそこにいた、ということによって、〈愛〉とは異なる。本当に?
ぼくのふるさとは、どこだろうか?それはおそらく、9歳のときまで住んでいたあの土地だろう。あの土地の思い出には、たしかになにか憧憬をかき立てるものがある。かつて隔離病棟だったらしい雨漏りのする借家。洪水対策で潰されてしまった川辺の秘密基地。その借家には、いまも知人が住んでいて、訪れたら温かく迎え入れてもらえるはずだ。けれども、そこにはきっとぼくの憧憬を満たしてくれるものはない。それは、永遠に失われてしまった。本当に?
あるいは。憧憬の対象としての〈ふるさと〉など、失われるまでもなく、初めからなかったのだろうか。それは、捏造された幻影にすぎないのではないだろうか。詩情に満ち溢れた、あの〈ふるさと〉は、本当は初めからなかったのではないだろうか。そんなふうにも思われる。
すくなくとも、その後10年ほど暮らしたあの土地は、ぼくにとってそのような〈ふるさと〉ではない。そこには、ぼくにとって大切なものがいくつかある。けれどもそこへ行くことは、なにかを取り戻すことではない。居どころから居どころへの移動でしかない。
ぼくは、〈ふるさと〉という言葉に、あまりに多くをおわせてしまったかもしれない。帰省すれば温かく迎えてくれる両親がいる、それだけでも充分に満足すべきことなのかもしれない。けれども。ぼくは、〈ふるさと〉を求めざるをえない。
とすれば、〈ふるさと〉への憧憬は、やはり〈愛〉に似ているのかもしれない。〈絶対的に他なるもの〉となってしまった〈もう一人の私〉。かれが住まうところ、それが〈ふるさと〉なのではないだろうか。