救いとしての自己変容――あるいは自己変容と他者

セメスターの N.N. 教授の「自己変容論」講義の期末レポートの準備をしているなかで、先セメスターの同じシリーズの講義で発表したさいのレジュメが出てきたので、掲載する。なお、発表後の質疑応答をうけての改変などはしていない。

また、本稿においてとくに影響をうけた著者として、E. Lévinas鷲田清一の2氏をあげておく。



救いは私的である。自己変容以外に救いはない。

「救い」とは、まったく私的,主観的なものである。一個の私が純粋に「救われた」と思うそのこと以外に、「救い」というものはありえない。「かれは、自分が救われた、と思っているかもしれないけれど、そのようなものをわたしは救いとしては認めない」、というようなことはけっして云えない。
「救われる」ということは、私がより「救われた」状態に移行することである。したがって、私が「救われる」ことは、私の状態の移行、すなわち自己変容をもってしかありえないことになる。

周囲の状況,他人の自分に対する態度が変わることによって、私が救われることも、当然ありうる。しかしそれは、それらの変化の影響により私が変わったから、私が救われた、ということである。その変化を私が知らなければ、私のうちに取り込まなければ、私が救われることはありえない。

私が変容し救われるには、他者に〈ふれ〉なければならない。

私はつねに、今ここにある私の状態に絶望している。私は、〈私〉という枠組みに限界付けられていることに絶望している。私は今ここにある私のままでは、その「絶望」から逃れえない。けれども、今ここにある私をどのように組み替えたところで、私が根本的に変容することは不可能である。私が本質的に変容するためには、私が外部に〈ふれる〉必要がある。

私は〈私〉のうちにおいて、もっとも安心し、〈私〉のうちこそが、わたしにとっての〈平和〉の場である。私が変容するためには、その〈私〉が一度打ち破られなければならない。その「打ち破り」は、他者によって生じる。他者とは、私にとって知りえないもののことである。したがって、その「打ち破り」も私にとって不可避なかたちで生じる。私には、その「打ち破り」は、生じてしまった、というかたちでしか現れない。

自己変容への「祈り」

他者によって不可避に生じる、という点において、自己変容は受動的である。しかしそれは、他者が私に〈ふれる〉ことであると同時に、私に他者が〈ふれる〉ことである。今ここに私があって初めて、次なる私への変容が生じるのである。
私が今ここでどのようにあるのか次第で、他者がどのように私に〈ふれる〉かは異なる。この点において、私は自己変容の原因である。私は実際に変容するまで、私の変容について知りえないが、実際に変容したならば、それは紛れもない私の変容として知られる。そしてその自己変容とはたしかに、私がなにかを望んだ結果として解されるだろう。
ここで私の能動性は、かろうじて能動性であるような能動性である。それは、自らを受動的にするような能動性である。どのような働きを外部から受けるのか、という受動へと向かう能動性である。
私が自己変容に対して能動的に働きかけようとするそのありようは、いわば「祈り」のようなかたちである。変容はたしかに私のもとで生じるのであり、私はたしかにそれを渇望している。だが今ここにいる私は、それがどのように結実するのか知りえない。私は結果を他者に委ねなければならない。それは、不可能なものの謂いである「神」に「祈る」ようなかたちである。

思いがけない自己変容。

思いがけず私が変容する、ということもありうる。なにか突然のできごとによって、思ってもみなかったかたちで私が変容し、救いが開ける、ということがある。
そのような変容が生じるには、私がそれを受け入れられる形になっていなければならない。しかし、それはまったく受動的な形である。私にとってそれは、私がそうと知らないうちに、私はそれを受け入れるべく開かれていた、あるいは私はそれを受け入れざるをえなかった、という形である。

自己変容の潜在に救いを見出す。

自己変容が救いでない場合もある。救いではないかもしれないが、巨視的に見れば、均衡が取れているのかもしれない。しかし、「救いでない」ということは覆せない。今ここの私にとって「救い」とは、今ここで私が「救われた」と感じていること以外ではない。
このような場合、かろうじて私を救うのは、再び変容することの可能性である。それは私を救うものなのかは分からない。しかし、すくなくとも私は未来永劫今ここにある私のままではない、ということは分かる。
この変容の潜在による「救い」は、今ここでわたしが救われている、という思いに比べれば、些細なものかもしれない。だが、この些細な救いこそが、私を自己変容による救いへと導くのではないか。

自己変容と関係性。

私が変容すれば、私に対する他者の現れ方も異なってくる。私の変容は、私と他人との関係の変容でもある。

私がどれだけ望んだとしても、他人はもうこれ以上変わらない、という場合がある。そういった場合でも、私が変わることによって、望ましい関係が得られることがある。そういった中で、もう変わらないと思っていた他人が、ふと変わることもあるだろう。
自己変容は、私自身の変容に留まらず、私を取り巻く全ての変容を意味する。

キーワード

エマニュエル・レヴィナス Emanuel Levinas