インターネット上における表現行為の公性と親密性

以下の文章は、A.A. 教授の集中講義のレポートとして、8月11日付けで、提出したものに、一部改変を加えたものである。



ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

インターネットの普及は、芸術ないし表現行為の様相を変容させつつあり、表現行為とコミュニケーションをめぐって、新たな地平を切り開く可能性をもっている。そして、そういった流れは、表現行為の価値空間のありようも変容させることにつながる。

近代においては、 表現行為とは公的なものであり、それらは、公的な評価を得ることを、あるいは、の批評にさらされることをつうじてより高められることを、求めるのだ ということが前提とされてきた。けれども、 インターネット上での表現行為においては、内輪と公との境界が、従来の表現空間におけるものと比べて、曖昧となる傾向にあり、そういった前提もまた、かならずしも通用するものではなくなっている。内輪の人たちのみを閲覧者として想定したブログや HTML ページに日記を書いている人は、それがすでに公のものと扱われうる状況にあることを、あまり意識していないだろう。あるいは、より公であるニコニコ動画などのサイトであっても、そこに掲載されている作品は、ひじょうに多くの人に視聴されるにもかかわらず、作者本人の意識としては、内輪のりの域をでていないことが多い。

インターネットは、たしかに、世界へと開かれた公衆空間で表現行為をおこなうことのできる人々の裾野を広げた。しかし、とうの表現者たちの中には、よくもわるくも、その広がりと公性とをあまり認識していない層がいることが、上記のような表現空間においては、みてとれる。鈴木謙介氏は、『ウェブ社会の思想』において、若者たちにとって、インターネットは、世界に開かれた空間ではなく、暗闇の中で、漠然と友人たちへの呼びかけを続けるようなものとして認識されてい*1る場合があることに言及している。そして、表現行為の公性を前提とするならば、 そのように、本来世界へと開かれているはずのインターネット空間において、しかし、結局は閉じられた関係しか築けないことは、より開かれた公衆空間において、表現行為をより高める機会を失うことであり、憂慮すべきことだ とされるはずである。

けれども一方で、表現行為の公衆性という考え方が、かならずしもつねに一般的なものではなかったことも、また、留意されるべきだろう。 日本においては、「近代」以前、和歌,俳諧,舞踊といった表現行為が、公衆芸術としての面よりも、親密芸術としての面に重きをおいていとなまれていた とされる。そして、 この表現行為の親密性というのは、実は、インターネットと親和的なものである とは云えないだろうか。

インターネットが普及し、マスメディア以外による「真実」に容易に触れられるようになった現代においては、J.-F. Lyotard の云うところの「大きな物語」が失効し、「小さな物語」ないし「小さな真実」が無数に跋扈する*2。そして、その中からどの「物語」ないし「真実」を選びとるかは、各個人の内発的な動機づけによって決められることになる*3。けれども、 そういった動機づけは、実際には、周囲の言論環境に左右される と考えられる。そして、その周囲の環境とは、おうおうにして内輪的なコミュニケーションであり、そうした内輪的なコミュニケーションおける相互承認が、各個人の内発的な動機づけが形成されていく過程の背後にあることは、想像にかたくない*4。つまり、インターネット空間における莫大な情報量は、その空間の本来的な公衆性に反して、結果として、内発的な動機づけを基礎づけるための内輪的なコミュニケーションの手段としての、ある意味において親密性の高い表現行為へと、その利用者たちを導くことになりうるのだ。

もちろん、ここでいうところの「内輪」において相互承認のために交わされる表現行為は、旧来の身内で営まれるものとしての親密芸術とは、そのなりたちにおいて異なっている。R.M. Maciver の区分に基づけば、前者は association 的であり、後者は community 的である。けれども、 かならずしも公衆による評価を目的としているわけではなく、自分(たち)の満足を求めておこなわれる という点において、前者は後者に類似する*5。このような「内輪」的な表現行為の中にも、もちろん、自分の選びとった「物語」ないし「真実」をより広めるためにおこなわれる表現行為もあるだろう。けれども、それらは、結局のところ、自分の選びとった「物語」ないし「真実」を承認してくれる「内輪」を広げようとしての行為にすぎず、そこには、公衆芸術のもつ、 対話や批評をつうじての互いの表現行為をより高めよう という意図は、ないのではないだろうか。

このような「内輪」的な表現行為と公衆芸術、そのいずれが正当な表現行為の形であるかもまた、選択の問題にしかなりえないような価値判断の空間に、わたしたちはいる。表現行為のめざすところが、あくまでも各個人の満足であるとするならば、前者のほうが、より適当な選択かもしれない。もちろん、 後者を選んだほうが、より高められたかたちの表現が養われる可能性が高い と云える。けれども、それはあくまでも一部の才能をもった表現者とその享受者としての公衆という図式に基づくものである。各個人が表現者としての満足を求めるならば、 前者のほうが適当な選択である との考えもまたなりたつのである。

とはいえ、インターネットにおける表現活動は、わたしが上で考察したような、「内輪」的なものばかりというわけではないだろう。そして、 インターネットという空間には、「内輪」的なものも公衆的なものも、どちらも抱え込めるだけの懐の深さがある とわたしは信じたい。

参考文献

キーワード

ジャン=フランソワ・リオタール マッキーヴァー アソシエーション コミュニティ 短歌

*1:鈴木2007,126頁

*2:上掲書,228頁参照.なお、「小さな真実」は、Lyotard の用語ではない。

*3:上掲書,140頁以下.

*4:各個人の内発的な動機づけと、集団における承認との関係については、上掲書155頁以下を参照されたい。

*5:この類似は、親密芸術としての和歌が、公衆芸術とは異なった数寄の価値空間を育んだことからの類推として、「内輪」の表現行為の中から、独自のものが生まれてくる可能性を示唆している とは云えないだろうか。