本稿は、N.N. 教授の講義「自己変容の哲学」の期末レポートとして、8月7日付で提出したものに、一部改変を加えたものである。
多くの場合において、自己変容は、信仰とかかわる。無信仰から信仰へ。信仰から無信仰へ。これらも自己変容の1つのかたちと云える。自分は、もはやかつての自分には戻れないほどに変容してしまった。そのことを受け入れるために、なんらかの信仰の力を借りることもありうる。そして。いまの状況から抜け出したい、けれどももはや、自分の力ではどうしようもない。そういったとき、多くの人は信仰に頼ることになる。いまの状況から抜け出したい。私を本源的に変えてしまいたい。そのように求められるとき、 自己変容は、すべからく信仰にかかわっている と云えよう。
本源的な自己変容において、私は、いまだかつて一度も〈私〉のうちになかったものに〈触れる〉必要がある*1。すでに〈私〉のうちあるものをどれだけ組み替えてみたところで、本源的な変容はありえない。〈私〉のうちでは、私は自由なのであるから、そのような「変容」は、望まれたなら即座に実現されるような「変容」である。そのような「変容」は、可逆的であり、すなわち、その前後における私は、差異をもたないに等しい。そのような「変容」は、私が求めるまでもなく、果たされることだろう。私が本源的に変容するためには、いまだかつて一度も〈私〉のうちになかったもの、私の全体性に原因をもたないものが、要請される。R. Descartes は、「第3省察」において、 私の存在を超越する無限の観念は、私のうちにその原因をもつことはできず、したがって、それは私を超越するなにものかによって原因づけられているはずだ とし、そのなにものかを神と呼んだ。そして、自己変容もまた、私の存在を超越するものによって原因づけられているはずであり、したがって、このような〈神〉が要請される。(〈神〉という名の宗教性を好まないならば、それを〈他者〉や〈超越者〉と呼んでもかまわない。)
自己変容を望み、私の絶対的な外部に、〈神〉に、その原因を求めること。その運動を名指すのにもっともしっくりとくる言葉は、〈信仰〉だろう。そして、その〈信仰〉において、私は不可知なものを、いまだかつて、私の知のうちに、私の存在のうちになかったものを求めるのである。それは、求める対象がなにであるかを知らずに求めることである。
そもそも、そのようななにであるか知りえないものを求めることは、可能なのだろうか。 一方では、私は、変容を求め、〈神〉にその変容の原因を認めているのだ ということを、とりあえずは、認めることとしよう。だが他方では、私(=自己)は、〈無神論者〉である。私は、〈私〉の外部を絶対に知りえないことにおいて、〈私〉の外部と絶対的に隔たっていることにおいて、〈無神論者〉たらざるをえない*2。〈無神論者〉である私にとって、〈信仰〉など意味をもつだろうか。〈無神論者〉である私は、変容を求めることができるだろうか。自己変容は、〈無神論者〉にとって、絶対にかなわないものなのではないだろうか。
だが、〈信仰〉と〈無神論〉の関係について、つぎのように考えることもできるのではないだろうか。 〈信仰〉は、その極限においては、〈無神論〉とほとんど同じ態度へといたるだろう と。と云うのは、 〈神〉について語ることは、とりもなおさず、〈神〉を私の全体性のうちにとりこむことであり、それは、〈神〉の超越性,無限性にたいする毀損である と考えうるからだ*3。したがって、〈信仰〉と〈無神論〉は、 〈神〉については、沈黙しなければならない*4 という点において、一致をみる。すなわち、〈無神論〉とは、〈信仰〉の極限的なありようの謂ではないだろうか。
さきに述べたように、自己変容を望むことは、一種の〈信仰〉である。であるならば、 私は、自己変容の原因については沈黙すべきだ ということになるだろうか。 〈信仰〉は、E. Lévinas の云う〈
私が本源的な変容について語りうるとすれば、「それは、たしかに、おこった」というかたちでしかないだろう。変容がおこった後でさえ、変容の原因それ自体は、不可知のままとどまることになる。私は、変容の後でも、〈無神論者〉であり続ける。変容がおこってしまった後では、もはやその原因は虚としてとどまるしかない。しかし、私は、新たな信仰へとおもむくのである。わたしは、もはや、本源的な変容の可能性にさらされている。そして、 そのような可能性において、本源的な変容をもとめざるをえない ということが、〈信仰〉なのではないだろうか。
参考文献
- コリン・デイヴィス,『レヴィナス序説』,内田樹訳,国文社,2000年,276頁.
- エマニュエル・レヴィナス,『全体性と無限』上,熊野純彦訳,〈岩波文庫〉33-691-1,岩波書店,2005年,462頁.
- エマニュエル・レヴィナス,『観念に到来する神について』,内田樹訳,国文社,1997年,342頁.
- ルイ・ヴィトゲンシュタイン,『論理哲学論考』,野矢茂樹訳,〈岩波文庫〉33-689-1,岩波書店,256頁.
- ルネ・デカルト,「省察」,所雄章訳,〈デカルト著作集〉2所収,1973年,7〜113頁.
*1: この〈触れる〉という表現の危うさに留意したい。それは、点的な接触よりもわずかな接触
[レヴィナス,『全体性と無限』上,103頁.]であり、私と超越との隔たりを乗り越えることのない接触である。
*2:じぶんがそこから分離している〈存在〉に融即することなく、分離された存在がまったく単独に現実存在をたもちつづけようとする、かくも完全な分離は、無神論と呼ばれうる。
[上掲書,98頁.]
*3:「神」という語が意味するはずの絶対性を毀損することなしに、「神」について合法的に語ることははたしてかのうであろうか。「神」についての意識を持つということは、対象を同化吸収する知のうちに、つまりさまざまな様態における学習すること(apprendre)と把持すること(saisir)の経験のうちに、「神」を包摂したことにはならないであろうか。
[レヴィナス,『観念に到来する神について』,8頁.]
*4:語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
[ウィトゲンシュタイン,『論理哲学論考』,7.]
*5:渇望は善さのようなものであって、〈渇望されるもの〉が渇望を充たすことはなく、さらにそれを穿ち深化するのである。
[レヴィナス,『全体性と無限』上,40頁.]