許されないことは、いかなる状況においても、許されないが、しかし……

E. Kant の、 いかなる場合でも嘘を吐いてはいけない という考えは、しばしば非難に晒されるが、これは、ある意味においては、適切なのではないだろうか。嘘の例はともかくとして、 いかなる場合でも許されない と捉えるべきことはあるのだ。

とは云え、その許されないことを選ぶことを余儀なくされる場合はある。しかし、もちろん、それは、なによりも避けられるべきことであり、まず、それを避けるためのオルタナティブな手段を可能なかぎり検討することが求められる。そして、全力をもってしてそれを避けようとしたうえでなお、それを選ぶことを余儀なくされたのだとしても、許されないことは、依然として、許されないことであるのだが。

あまりにも過酷であるが、許されないことをした者は、それがいかなる状況におけるものであったとしても、 許されないことをした という罪を背負っていかざるをえないのである。そして、わたしたちはみな、このような許されざる罪を背負わざるをえない状況に晒されうるのだ。このような考え方をしなければ、テロリズムにたいして、一貫した態度は、とれないのではないだろうか。

あるいは、死刑について。許されないことをした者にたいしてであっても、許されないことをもってしてかれ/かの女を制裁することは、やはり、許されないことである。したがって、人を殺すことそのものを許されないとする価値観を持つ者は、死刑にも反対しなければならない。一方で、罪無き者の命を奪うことは許されない という価値観を持つ者であれば、死刑に反対しないことは、それはそれで、一貫した態度である。そして、殺人そのものが許されないことかどうかという問にたいする答えは、わたしのなかでは、まだ決着がつかないものである。