自ら自身の語り口/文体と言語の多様性在住外国人との語り合いカフェ「母語とはなにか」をとおして

15 日に、阪大のオレンジ・ショップで開かれた在住外国人との語り合いカフェに参加した。 母語とはなにか という主題のもと、在日外国人の方や国際結婚をされている方の経験談を含め、さまざまな立場からの意見を交えて、興味深い議論ができた。

ぼくは、3 度ほど発言をし、その中で、 母語 (ここでは、国語だけでなく、方言も母語として扱う) よりもむしろ、いま使っている語り方のほうにむしろ親しみをもつのではないか という旨のことを述べた。いかに、それと関係する問題で、時間の都合でカフェの中で述べられなかったことを記す。

母語とはなにか ということが主題であったが、ぼくは、 母語もそれなりの意味をもつとしても、むしろ、親の乗り越えというわけではないが、自ら自身の語り口や文体の再構築ということが、より重要な主題となりうるのではないか と感じた。議論の中で、 言葉にとって重要なのは、あくまでもそれが通じることであり、したがって、日本国外ではほとんど通じない日本語は、もはや不要であり、英語なりなんなりの共通語があれば、それで十分なのではないか という意見も出た。しかし、ぼくは、それに反対する。なぜならば、 自らの語り口/文体の再構築においては、異なる言語間の交流ということが、きわめて重要な意味をもつ と考えられるからだ。単一の共通言語という想定のもとでは、このような発想は、困難である。

ある言語共同体においてマイナーな価値を生きる人たちの中には、自らの母語とは異なった言語から、語彙や語り口/文体を引っ張ってこなければ、自らの困難を語りうる自ら自身の語り口/文体の再構築を成しえない人たちもいるだろう。また、そのような場合に限らずとも、異なる言語との交流をとおしてでなければありえないような、個人の語り口/文体の変容というものもありうる。個人は、歴史的に規定されているのであり、その規定は、言語と密接に関わっている。諸個人の可能性は、 言語の多様性によって、その多様性を担保される と云っても、過言ではない。そのような言語の多様性の中にあって、人々は、自ら自身の語り口/文体を再構築し、ある価値を生きる個人として、自らの生を語りうるようになるのである。