随想

ふるさとについて

ふるさとは、そのものとしては、もはやない、などと、S. Freud を真似て云ってみようか*1。ふるさとへの憧憬、それは失われてしまったものへの憧憬である。それはけっして手に入らないものを求めている、というてんにおいて、愛に似ている。けれども、それは…

記憶と時間と自分と

以下の文章は、写真部の先輩、というか人生の先輩たる野郎氏のために、「記憶」という題目の下書かれた。 記憶。それを人は普通、なにか時間に関係したものとしてとらえるだろう。けれどもぼくにとって記憶は、もはや、時間の流れから外れてしまったもののよ…

風景のノスタルジー

以下の文章は、K. N. 教授の講義「風景としての世界」において、私が風景について考えた内容である。風景を風景たらしめる中心的な要素として、ノスタルジーの喚起というものがあるだろう。景観が一つの普遍的な美の想定に基づいた文脈であるのに対し、個々…

一つの仮定における身体のディレンマ

もしも永遠に自分自身の身体と一切の身体的感覚を失う代わりに、身体という桎梏から解き放たれ、純粋な精神として世界に直截的に関係することが出来るように様になるならば、私はそれを選ぶだろうか。世界に対し自由に直截的に関係することは、私が憧れて已…

表現(偽る為の、曝け出す為の)

私は自分を偽る為ではなく、自分を曝け出す為に、表現すべきなのだろうか。それとも、表現というものは、どう足掻いても、自分を偽るためのものとなってしまうのだろうか。

僕は正論を言われても大丈夫か

私はかつてある人に対し、「僕は正論を言われても大丈夫だ」といったようなことを言った覚えがある。今から考えてみれば、なぜそんな大それたことを言ったのだろうかと疑問に思う。私も勿論、ある種の正論*1によって自分の欠点を指摘されれば、酷くショック…

いくつかの思考の断片(3)

私は本来臆病な人間であり、理論的な虚無主義と、精神的な楽天主義は、それを覆い隠すために身に着けたものなのではなかろうか。

いくつかの思考の断片(2)

気配を感じるだけ、といった程度の中途半端な霊感*1を持つよりも、霊の姿を見ることが出来るだけの強い霊感を持っていた方が、恐怖は少ないのではないだろうか。恐怖というものが、その存在(の可能性)は感知できるが、その本質を認識できないものに対して…

哲学はダイアローグ的である。

昨日、地元の禅宗の寺の住職であり、市内の中学校(筆者の母校ではない)の美術教師でもあり、仏教的なベースに基づいた現代的な彫刻作品も発表されているS氏が、美術の講師をして欲しいとのことで、陶芸家である父を尋ねて来られた*1 *2。僕は彫刻や仏教に…