水面下の「愛」、サディスティックな「愛」

水面下*1まで降りてきて、おれと一緒に悩め、そしてその先のなにかに至るということ。それを、結局のところおれは求めているんじゃないだろうか。おれは、とことんまで、おれである。おれは〈他者〉に対するときすら、それがいわば〈信仰〉というかたちをとるがゆえにかえって、どこまでも「おれ」なのである。おれは、相手にとってなにがよいのかというような話もしないではないが、それ以上に、相手に水面下に降りてきて欲しいのだ。「日常」を生きるということ、それがうまくいくかどうか。そのことを軽んじるつもりはないが、場合によっては、それは悩むということ(もちろんそこでは、その先のなにか、その果てのなにかが目指されてはいるのだが)の糧として、二の次にしてしまうのだ。そしてしばしば、他人についても同じ方向へと導こうとしてしまっている。

というか、そのように生きているがゆえに、あるいはそのように生きていくために、「日常を生きていく」ということへの、とくにその連続する未来への嗅覚を鈍らせてしまっているのだ。しかしおれは、「日常を生きる」ということも諦めておらず、むしろそこにすくなからぬ拘りをもってもいる。だから話はややこしくなるのだ。

おれの愛が成就するなどということは、はたしてありうるのだろうか。おれはどうしようもなくおれであるがゆえに、「愛」よりも〈信仰〉を優先してしまう。「愛」それは、「あなた」が幸いであるべく為すという、それ自体ほとんど不可能なほど困難な行いを導くものである。それは幸いにも、成就しうるものであり、それも、それなりにありふれて成就するものである。しかし、そのようなものとしての「愛」ははたして、おれがおれであるということと、そして、おれの〈信仰〉と、両立しうるものであるのか。それが問である。

もし両立しうるとしたら、それはある種のサディズム、それもマゾヒズムと分かちがたく結びついたサディズムにおいてでしかないのではないか。「あなた」がおれととともに悩むこと。おれは〈汝〉を〈信仰〉するがゆえに、「あなた」を悩ましめる。おれは、おれの「愛」において、別に「あなた」を悩ませること自体を求めているのではない。おれが求めているのは、「あなた」が(ここではそれはおれによってなのだが)悩むこと、そしてその果てにあるものを目指すということにおいて、「あなた」が幸いたることを求めているのだ*2。おれはこのことが成就するほどに幸いであろうか。この問が最後に残される。

(あるいはおれは、おれの〈信仰〉を、あるいはおれの「愛」を、誤ったものとして捨て去るべきなのだろうか。)

*1:永井均、『〈子ども〉のための哲学』、〈講談社現代新書〉, 1995年を参照。

*2:Twitter に以前、次のように書いた。サディズムの本質は、私が汝を苦しめるということにではなく、汝が私に苦しめられるということにある。そこで汝と私とが同一化されるのであるが、同時に私はその苦しみの無限の彼方へと至るである。暴力的で越権的な同一化、それは、そう呼んでしまうことをわたしは躊躇いもするのだが、しかしもはや、絶対的な〈愛〉と呼ばざるをえないものなのである。そして、それが〈愛〉であるならば、この「同一化」は、〈同〉と〈他〉の間の境界を、取り払ってしまうことは不可能であるとしても、それを揺るがすような契機、悪しき「緊張」を無化してしまうような優れた意味での〈緊張〉、としての〈同一化〉であるのではないだろうか。