2008-01-01から1年間の記事一覧

水族館で生きものを撮る、ということ――Y.Ksmt22 氏 ‘A Little Aqua’ について

水族館で生きものを撮る、というのはどういうことだろうか。Y.Ksmt22 氏の組写真 ‘A Little Aqua’ を見ていて、そんなことを考えた。生きものそのものを撮るなら、水族館という人工的な環境ではなく、自然の中で撮った方が、ぶがあるように思われる。だから…

主題詩「徳利」(散文詩1篇,短歌1首)

以下の詩歌は、William Yaroughs 氏と、Archenology(仮)氏とともに、そろぞれがぼくの出した主題によって詩を詠んだ際の作である。なお、細部に改変を加えた。 きみが呉れた徳利に いまでもぼくはなみなみと 酒を注ぐことができない 溢れさせちまうのが怖…

殺人という非・倫理の倫理性

殺人は、非倫理的な行いである。それは、倫理という枠組みの中で非難される行いである、という意味で非倫理的なのではない。それは倫理の範囲を超えた行いである、という意味で非倫理的なのである。殺人という行いは、倫理の可能性を封じてしまう。他者を殺…

「私」と「考える」

「私は考える」と云う際に、すでに「私は存在する」ということが前提とされてしまっているのではないだろうか。だから、この段階で云いうるのは、ただ主語を欠いた「考える」ということのみではないだろうか。もちろん、語用論的に考えるならば、「考える」…

Spinozaと多世界論

以下の文章は、U.O. 教授の演習「スピノザ『エチカ』を読む VI」の期末レポートとして提出したものの転載である。 わたしが Baruch De Spinoza の思想に興味をもつのは、とくに多世界論*1との関係においてである。Spinoza の思想の影響を受けているとされる…

ブログ名変更

ブログの名前を「ユウタ 3.21のブログ」という無味乾燥なものから、「虚人日記〔Le Petit Cahier〕」に改めてみた。元ネタは Agota Kristof 氏の小説『悪童日記』〔« Le Grand Cahier »〕である。

俳句(無季)

9月6日に霧島ホテルにて詠む。 打たせ湯の水面〔みなも〕に揺らめく夕の火よ

Deleuze によって語られる Nietzsche ―― Nietzsche との対話の契機として

以下の文章は、S.N. 教授の講義「ニーチェの歴史思想(2)」の期末レポートとして提出したものの転載である。なお、この文章が書かれてから一月の間に、考えを改めた部分があるが、それを反映させようとすると、おそらく収拾が付かなくなると考えられるので…

倦怠と覚醒の夜

躰は奇妙に怠く わたしの四肢に嘔吐を迫る 身体の認識は侵され グロテスクに変容する 混沌の塊がわたしを囲み しかしそれはわたし自身の造形でもある 流線型に感覚される後頭部は わたしに成りそこねた臓物を溜め込んでいる 倦怠と覚醒に苛まれる暗闇の夜 全…

俳句(無季)

わが思い全てを文字にできるなら

綺麗な女の子になって

ぼくはむしろ 綺麗な女の子になってかの女を抱きたい と思う 綺麗な男の子になったぼくがかの女を抱いているところなど 想像できないけれど 綺麗な女の子になったぼくがかの女を抱いているところは 現実から遠すぎて かえって想像しやすい あるいはぼくの中…

『冒険王・横尾忠則』展短評 ―― 契機、永遠かつ反復的な

横尾忠則氏の絵画は、わたしに解釈を促してくる。Friedrich Nietzsche の著作がそうであるように*1。かれの描く画面には、生成の,意志の,賭博の契機が現れている。永遠であるとともに反復的である契機が。意志をもたなければ、わたしはその前でただ圧倒さ…

記憶と時間と自分と

以下の文章は、写真部の先輩、というか人生の先輩たる野郎氏のために、「記憶」という題目の下書かれた。 記憶。それを人は普通、なにか時間に関係したものとしてとらえるだろう。けれどもぼくにとって記憶は、もはや、時間の流れから外れてしまったもののよ…

私と〈他者〉との関係における私の自由の有無

以下の文章は、わたしの敬愛する友人 S.S. 氏との議論において、かの女から提起された問題に対する返答として、Emmanuel Lévinas の思想に対する、極めて狭く浅い理解に基づいて書かれた。なお、ここに掲載するにあたって、文体を改めた。 かの女がわたしに…

短歌二首

会いたいが会えば気まずい片思いされど会えれば嬉しさぞ勝る 来て欲しいメールは待てども暮らせども来ぬがスパムは画面を埋める

短歌

こんなときも恋の歌えぬぼくがため代りにきみが歌ってくれよ

〈国家中心主義リアリズム〉か〈ネオ制度主義〉か

つねに暴力でしかない〈世界〉の中において、ある「平和」を求めるならば、関わることで暴力が生じざるをえない〈他者〉に対して、かれがその暴力を受け流し、あるいは糧とすることを願いながら関わる以外のすべはないに等しい*1。ここで“〈国家中心主義的リ…

なぜ話し言葉においては書き言葉においてより外来語を多用してしまうか

ぼくは書き言葉〔écriture〕においては外来語を極力使わないようにしている。けれども、話し言葉〔parole〕においては、ときに顰蹙を買うほどまでに、外来語を多用してしまう。これはなぜだろうか。まず思いつく理由は、日本語には同音異義語が多く、特に訳…

完全な美はありえないか

完全な美などというものは、ありえないのではないだろうか。なぜなら、美を媒介する私たちの機能が不完全なものだから。美というものは、媒体の不完全さなどの要素の、その単純な集合として生じるものではない、ということを考え合わせるならば、これは完全…

「これは美しい」への同意を、他者に要求することはできない

他者との間に「美しい」という言葉についての、なんらかの共通理解がなければ、「これは美しい」と言うことは、意味を持ちえない。ここから一見、他者に対して「これは美しい」への同意を要求することは妥当であるように思われる。けれども、それは間違って…

俳句(無季)

曇り夜の真中に見つけた一つ星

赤緑色の線

網膜に焼き付いた その赤緑色の線は いつか私に訪れるはずの 断絶を思わせる 私はそれを一時でも早く 思考の外へと追い出したいのだけれど 瞼を閉じても 私は逃げられない

鈴木芳樹氏へと捧ぐ二首の短歌

更新を待ち続けていたウェブログのフィードを外すその悲しさよ いや、あるいは外さずにおくべきか。 持ち主の往ってしまったウェブログのフィードはしばし外さずにおく 関連ウェブサイト pêle-mêle(鈴木芳樹氏)

森山大道写真展『凶区 -Erotica-』,『木村伊兵衛のパリ』展、短評

森山大道氏の写真は、平面的にも立体的にも二重に迫ってくる。 S.K. 氏の、木村伊兵衛氏の写真はなに一つ欠けてもいけない絶妙の均衡の上にある、という評は、言いえて妙だろう。色彩の配置も絶妙としか言いようがない。 関連ウェブサイト 森山大道写真展『…

神と賽子

「神は賽子を振らない」のではなく「神は賽子の全ての目を一度に出す」*1のではないだろうか。なお、ここでいう「神」は、Spinoza の神に近い「=世界」としての〈神〉である。 キーワード スピノザの神 神はサイコロを振らない 神は賽を投げない 不確定性原…

世界の一つの現れと認識者

一としての世界があり、時間や空間といったものは、その認識における一つの現れである、という解釈を私は考えている。だがここで、認識者は、世界にとって,あるいは世界において、いったい何であろうか。認識者は当然世界の内にあるのだ、と考えると、そこ…

可能性と必然

私における世界の現象の可能性に応じた無限に多様な私と無限に多様な世界があるならば、そして一つの私と一つの世界の対応が厳密に一対一であるならば、私の下である可能性が現象した、ということは、一つの必然である、と言えるのではないだろうか。

短歌

4月20日に奈良公園にて詠む。 どのコイを招き寄すかとわが心濁る水面に独り泳ぐかも

暴力と糧

他者との間になりたつ全ては暴力である。ただ私にできるのは、他者の暴力を糧とすることであり、私の愛する他者がせめて、私の暴力を糧とできるよう、願うことである。

鯨の生物濃縮

鯨食に関してかなり素朴な疑問があるんだけどさ。[魚拓](はてな匿名ダイアリー) この問題は川端裕人氏の『イルカとぼくらの微妙な関係』でも触れられているので、興味のある人は参照されたい。 関連ウェブ・ページ 動物の権利はどこまで正当か?[魚拓]…