グロテスクなシ

ぼくにはもう、グロテスクになりたいという衝動しか残されていなかったのですよ。かれはぼくに語る。この上なくグロテスクに息絶えているかれは。自分をグロテスクに変容させたいという衝動しか、と。

かれは少しずつ、それ以外の現実を失っていった。グロテスクになりたいという、その衝動以外の、全ての現実を。

かれはぼくに言う。でもまだ足りません。ぼくはもうぼくという存在を「なく」してしまいました。けれどもぼくは、それ以上にぼくを、壊体したいのです、と。

あなたはぼくがこうなったことを、別に残念に思わなくても良いのですよ。後悔なんてしようがないじゃないですか。これはぼくの問題です。あなたとはなんの関係もありません。あなたはもはや、ぼくにとって失われた側のものとなっていたのですから。失われたものに責任なんてないじゃないですか。

けれどもぼくにとってぼくはまだ失われていない。確かにぼくはかれと同じ危機にある。そしてかれはあるいは未来のぼくかもしれない。しかしかれが失ったものの多くを、ぼくはまだ失っていない。だからぼくは、かれがそうなったことを、こうやって記述しなければならないようだ。

だが、いったい何を記述すればよいのだろう。ぼくはかれがそうなったことについて、少なからぬ衝撃を受けている。それは一つにかれがぼくと遠からぬところでそうなるまでに至ってしまったことへの衝撃であり、それは一つにそのような点にまで至うるのだということへの衝撃である(あるいはぼくはそのことを知っていたのかもしれないが)。だが、そのことに対して、いったいどのような態度で臨めば良いのか。

そのことについて、かれからなんらかの提案が為されるということはないだろう。かれは今や、自分のグロテスク以外のものを語りえない。かれの存在(あるいは非―存在)は、最早グロテスクと更なるグロテスクへの志向、ただそれだけなのだ。そう、そもそもかれはぼくに語ってなどいない。ぼくは確かにかれの〈言葉〉を受けていたのだけれども、かれは語ってなどいないのだ。

ぼくはもう一度、この詩を最初から書き直すべきだろうか?