Deleuze によって語られる Nietzsche ―― Nietzsche との対話の契機として

以下の文章は、S.N. 教授の講義「ニーチェの歴史思想(2)」の期末レポートとして提出したものの転載である。なお、この文章が書かれてから一月の間に、考えを改めた部分があるが、それを反映させようとすると、おそらく収拾が付かなくなると考えられるので、ここでは全てそのまま掲載する。



「肯定」「偶然の必然」「賭博」。これらの語を、Gilles Deleuze によって語られる Friedrich Nietzsche のうちに(あるいは Nietzsche を語る Deleuze のうちに)見つけたとき、わたし*1は大変嬉しく感じた。それは、わたしは近頃、私と〈他者〉との間に倫理が生じる可能性について思いをめぐらしているのだが、そこで「これはもしかしたら重要なのではないだろうか」と考えていたのが、まさにこれらの語であったからだ。これらの語は、当然ながらわたしが独力でこの文脈においたものではない。それは、かれらの本を捲ってみたり、かれらについて少しばかり読んだり聞いたりしたことから、その文脈においたものであり、あるいは、かれらに少なからず縁のある Spinoza などから借用したものである。けれども、そういった経緯とは関係なく、Deleuze が Nietzsche を語る文脈における、この(再)発見は私にとって喜ぶべきことだろう。なぜならそこには、わたしとかれらとの新たな対話の契機が感じられるからだ。私はかれらと、かれらの遺した著作を通して、対話したいとの思いを以前からもっていた。けれども、その会話を始めるための、始めの問いが何であるべきか、それを掴みあぐねていた。そして今私は、これらの語の可能性を私の〈倫理〉の文脈との関連のうちで問う、ということに、かれらとの対話の契機を得たのである。

さてここではさしあたって、その対話の準備として、これらの語を、Nietzsche を語る Deleuze は、どの様な文脈において用いているのかを、わたし自身の文脈もからませながら、まとめてみたいと思う。これらの語を Deleuze は、〈永遠回帰〉を語る上で用いている。そしてこの〈永遠回帰〉に対するかれの解釈こそが、わたしにとって驚きに満ちた喜びを与えてくれたそのものである。そこで Deleuze は次のように言う。永遠回帰〉を〈同一なもの〉の回帰とすることは、どうしても避けねばならない*2、と。この解釈はまさに衝撃的だった。

わたしは、〈永遠回帰〉のうちには可能性が必然となる次元がありうるのではなだろうか*3、ということを、漠然と感じていた。けれどもそれは、「等しきものの永遠回帰」として私に与えられていた。これでは、〈永遠回帰〉は、可能性のある事象は、同時的に,あるいは無限の反復のうちに*4、すべて必然的に起こる、というわたしのアイデアとは相容れないものとなってしまう。ところが Deleuze は、〈同一なもの〉は、種々異なるもの以前にあらかじめ存在することはない*5、とし、差異のみが回帰=反復する、と言う。ここにはまさに、反復が永遠に繰り返されることによって、偶然が必然へと収束していく次元が見える*6

もっとも、Deleuze が続けて述べる、その反復においては、「生半可な意志」たちの世界は、「一度だけ」という条件でわれわれが欲するようのものは、すべてふるい落とされる*7、という解釈は、わたしの考えていたものとは異なる。というのは、わたしは、私の意志が、その永遠の反復のうちで、一度でも現実化するならば、そこにおいて意志の肯定が意味をもつ、というふうに考えていたからだ。つまり、永遠の反復のうちのそのほとんどが、私の意志に反するものであったとしても、そのうちに私の意志が通ることが一度でもあったとしたならば、私がそのことを意志したことは、意味をもつ、ということである。

この相違において問題となるのは、「賭博」という言葉を、どのようなものとしてとらえるべきか、ということではないだろうか。Deleuze は、真の賭博者は、偶然を肯定の対象にする*8、と云う。そして確かに、賭博というものは、偶然的な契機において、自らの選択が、意志された結果へと結びつくことへの、一定の確信がなければ、賭博として成立しえないように思われる。しかし、はたして私の意志などというものによって、永遠に反復する偶然が、一つの必然へと収束するなどということがありえるのだろうか。わたしはむしろこのことを、永遠の反復のうちに、一度でも意志が通ることがあったならば、それ以外の反復は、もはやないに等しいものと化する、というふうに解してしまいたいのだが、それは誤りだろうか。わたしには、それ以外には、偶然性を認めつつ意志を肯定しうるすべはないように思われるのだが。

この問いに対して、今安易な解答を与えることは避けたい。ここでは、Nietzsche=Deleuze と対話する上での、いくつかの指標を得ることができたことに、ひとまず満足し、閉じることとする。

参考文献

*1:混乱を避けるため、本稿の執筆者を指す一人称としてのわたしはひらがなで記し、概念としての私は漢字で記すこととする。

*2:ジル・ドゥルーズ,『ニーチェ』,64頁。

*3:これは、Baruch De Spinoza を読むことをとおして着想されたものである。

*4:時間が宇宙にとって本質的なものでないなら、これらの2例を区別する必要はないだろう。

*5:Ibid.

*6:このことは、試行回数が多ければ多いほど、その結果は理論値に近づく、という統計学的な視点から説明したくなるが、その安易な導入はここでは避けたい。

*7:Id., 67頁。

*8:Id., 64頁。