Spinozaと多世界論

以下の文章は、U.O. 教授の演習「スピノザ『エチカ』を読む VI」の期末レポートとして提出したものの転載である。



わたしが Baruch De Spinoza の思想に興味をもつのは、とくに多世界論*1との関係においてである。Spinoza の思想の影響を受けているとされる、Albert Einstein の有名な言葉に、神はサイコロを振らない、というものがあるが、わたしはこれに対し、神は複数のサイコロを振り、全ての目を出す、ということが云いうるのではないか、と考えている。換言するならば、Spinoza の神=自然のもとでは、複数の可能性のある事物が、すべて必然的に現実化しているのではないか、ということである。

注意されたいのは、わたしがここで考えているのは、いわゆる可能世界論*2ではなく多世界論である、ということである。つまり、わたしは可能性のある世界が複数あって、その中からわたしたちのいる一つの世界が偶然的に(あるいはなんらかの意志によって)現実化するべく選び取られ、それ以外の世界は潜在的なものにとどまった、ということを想定しているのではない。そうではなく、わたしたちのいる世界はもちろんのこと、存在する可能性があった全ての世界は、すべて現実化している、という事態を想定しているのである。

もっとも、多世界論という表現にも問題があるかもしれない。なぜなら、それらの複数の世界は、さらに高次の基準でみるならば、一つの〈世界〉の中に含まれる、と云いうるだろうからだ。どういうことか、少しばかり単純化したうえで、以下で説明を試みたい。
わたしたちは、空間をある程度自由に動き回りそれを見渡すことができる。そして無限知性においては、その空間の全てが同時的に把握されている、と考えることは容易だろう。またわたしたちは、時間については自由に動き回ることはできず、つねに現在しか見ることができない*3。しかし、そのすべてを〈同時的〉に把握している知性を想定することは、さほど難しいことではないだろう*4。これらと同様のことが、多世界においても云えないだろうか。つまり、確かにわたしたちの有限知性において知りうるのは、現にわたしたちがいるこの世界のみであるが、しかし、無限知性においては、複数の世界が〈同時的〉に把握されていることがありうるのではないだろうか、ということである。

ところで、このような多世界論においては、それぞれの世界において、私*5の同一性がどのように扱われるのか、という問題が生じることは避けがたい。なぜならば、このような分岐的な多世界論においては、ある時点においてある世界に存在している私はただ一人であるが、次の時点においては、その私が複数の世界に存在していなければならない、ということになるからである。世界が複数の世界に分かれてよいのに、私が複数の私に分かれていけない、という法はない、と云ってしまえばそれまでかもしれないが、とりあえず、それ以外の解決案もいくつか示してみることとする。

まず考えうるのは、私は常に生成消滅しているのであり、現在の私と過去,未来の私には同一性はなく、したがって、世界が分岐するとした際にも、とくに私の同一性について問題が生じることはない、との考え方である。過去の私が現在の私にとって意味をもつのは、現在の私の直接原因である、という以上のものではなく、未来の私は未だ現実化していないのだから、潜在的な意味しかもたない、ということである。

あるいは、世界は、その都度その都度全ての可能性の分だけ分岐する、というのではなく、はじめから、全ての可能性の分だけの世界が独立的に*6存在している、ということも考えうるかもしれない。そうするならば、世界の分岐は、私が存在する以前の一番最初に一度行われるのみであり、そこでは私が複数の私にわかれるような事態はない、ということになる。

(以下、レポートの要件に合わせるため、演習において扱った範囲の定理との突き合わせを行ったが、ここでは、わたし自身の問題系と関わる定理32についての部分のみ掲載する。)

定理32について。本解釈ととくに関わる部分はないだろう。系についても同様。ただし、自由でない意志というものがいったいどのようなものなのか、ということを考察する際には、意志された内容と現実との関わり*7を考える上で、多世界論的な解釈と関連付けて考えてみることは、面白いのではないかと思う。現時点では、その問題について立ち入る余裕がないので、稿を改めたい。

なお、わたしはこの解釈を、Friedrich Nietzsche永遠回帰についての Gilles Deleuze の解釈と関連付けて考えてみると面白いのではないか、と思っている。またそこでは、前述の意志の問題も深くかかわるだろう、と考えられる。その内容について論じることは、本稿の目的の範囲を超えるので、ここではおき、今後の課題としたい。

*1:自然科学においては、量子論の Everett 解釈においてみられる。なお量子論観測問題の解釈としては、多世界論をとらないコペンハーゲン解釈のほうが主流であることに留意されたい。

*2:Gottfried Leibniz の云うような。

*3:記憶に関して、過去を見ている、という云いかたがありうるが、それはあくまでも現在において過去を再生して見ているのであり、過去そのものを見ているのではないだろう。

*4:Spinoza は、このように、全ての時間が〈同時的〉に現れる、ということは想定していなかったかもしれないが。

*5:混乱を避けるため、本稿の執筆者を指す一人称としてのわたしはひらがなで記し、概念としての私は漢字で記すこととする。

*6:ここで云う独立とは、世界間の独立であり、高次の〈世界〉から独立は意味しない。

*7:ここで云いたいのは、意志が現実に影響を与えるかどうか、ということではなく、意志が通る通らないという事態が、必然的世界の中でどのような意味をもつか、ということである。